『走ることについて語るときに僕の語ること』(村上 春樹)

 毎年ノーベル賞候補に上がり、今や夏目漱石か村上春樹かと言われるくらいの国民的作家、村上春樹。長距離走愛好家としても知られている彼の、走ることに絡めて自分をとことん語ったエッセイ集。(そんな人はいないだろうが)決して「速く走るコツ」だの「走ることで見つかる健康や悟り」みたいなことは書かれていない。村上春樹が書いたという事前情報がなければ、ほとんどはそこらのおっさんの「マラソン日記ブログ」とも読める。






 私は走ることなんてだいっきらいだ。1キロ歩いただけで目が回るってのに、走るなんて大人のすることではない。たとえ目の前で横断歩道の青信号が点滅していても私は走らないぞ。しかし世の中には走ることをなによりも愛する人種が存在する。昔同僚にやっぱり市民ランナーの女の子がいて、ホノルルマラソンに参加した足でとんぼ返り、時差も何のその月曜日から元気に出勤してきた強者がいた。何かが狂ってるとしか思えない。

 「24時間テレビ」の呼び物「100キロマラソン」で、「○○さんは、家族のために走ります!」とアナウンサーが実況する声に毎年きょとんとする。家族愛とマラソンと何の関係が? そもそもなぜ人は苦しい思いをしてまで走るのだろうか。当たり前だが、長距離走愛好家にとってもマラソンは苦しい。走り終わった瞬間はもうこれ以上走らなくてよい幸せに包まれるらしい。そんじゃあ最初から走らなきゃいいじゃん…。

 原始時代、走る行為は獲物を捕まえる手段でもあり、敵から逃げる手段でもあった。動物である以上、速く移動することには大きなメリットがある。史実に寄ればもともとマラソンは味方の勝利を「伝える」ために伝令が走ったのが最初だ。「走れメロス」も親友を救うために走り続けた。こうした生存競争や人との関わり以外で走ることを楽しみにできる人種の心理とはなんなのか。自分の限界と戦いいじめ抜くことで、抱える原罪をさいなめているのか。また日常から脱却することで、何かから逃げているようにも見える。

 最初、村上氏の走る動機はダイエットと体力作りだったそうだ。実にありきたりなこと。でも続かない人も多い動機である。しかし村上氏はのめり込んでいった。走ることを続けていなかったら、小説も書かなかったとまでは言わないが、作風は随分変わっていただろうと語っている。村上春樹の長編小説は(『ノルウェーの森』を除いて)ほとんどの作品を読んでいる。直接ランナーが出てくることはなかったと思う(普通ないか)。でも主人公はいずれも何かを探して世界の謎を解くために奔走していた気もする。そうか、走るとは、逃げると同時に何かを追いかける行為でもあるな。


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