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zoom RSS 『アウトサイダーアート 芸術のはじまる場所』(デイヴィド・マクラガン)

<<   作成日時 : 2011/07/03 15:21   >>

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 原題に付いた副題は - From margins to marketplace - 。これを翻訳では「芸術のはじまる場所」と意訳している。"margin" とは余白、ここではメインストリームに乗らない(未開の?)周辺地帯、いわゆる「辺境」のことか。そして意訳ではまったく意味合いが無視されている "marketplace" は「市場」である。つまりゲージツは「商売になるかならないか」が肝要という趣旨なのだ。現代、あらゆる芸術にとって、商業主義は避けて通ることに出来ない問題だが、絵画は特に投機目的の金が絡む。

 この本は朝日新聞の書評ページで見かけて読んでみたんだったかな。軽いエッセイ・入門書ではなく、ほとんど学術論文に近いのでめちゃムズかしかった。それでもヘンリー・ダーガーを観て感じたこととだいたい同じところが論考されている。

 どんな革新的な芸術も最初はアウトサイダーアートじゃなかったのか?という誰しもが浮かべる疑問。浮世絵がそうだったように、常に繰り返される新大陸や第三世界で発見される新価値の探求が、世界中を回りきってしまった末に病んだ精神世界にまで降りてきたと捉えてもいいのかも知れない。

 アウトサイダーアートの定義には諸説あるようだ。筆者が引用した文献に「他者を必要としない作品」(P174)というのがあり、私はこれが一番ピンと来た。逆説的だが、故にアウトサイダーアートとは定義されてはいけない宿命も同時に持っている。

 ゴッホにしろルソーにしろアウトサイダーアートと呼べたのではと思う。実際この本でも少し議論になっている。細かいことはさておき、ひとつ言えることは、ゴッホもルソーも当時は理解されず、「ヘタクソ!」以外のなにものでもなかった(ルソーはいま見てもヘタだと思うけどw)。

 前衛と呼ばれる芸術作品を鑑賞するには、なんかしらの「解説」が必要であることが多い。しかしアウトサイダーアーチストたちは一様にとてもわかりやすく、テクニック(というか強烈な生命力)のすごさが素人目にもすぐわかる(それは時に不快感でもあるが)。

 そしてここが一番肝心な事に、彼らには師がいない。ゴッホやルソーとも違いお手本とした古典芸術にも触れたことがない(ということになっている?)。外部から遮断され、誰から教わったものでもない作品を誰に見せるためにでもなく黙々と創っていく。

 そこではこれまで見たこともない新鮮さがウリになる。アウトサイダーは間違っても自分の才能に気づいてはいけない。「発見」され、世に出され、調子にのってちょっとウケ狙いの作品でも出そうものならその価値はあっという間に値崩れしていく。天然モノが養殖になってしまうように。そして、天然モノである証拠を出すために無数の物語が(勝手に)紡がれる(こともある)。

 著者はアーチストであり、同時にアートセラピーに関わる人間らしい。人はなぜ自分の心象風景を絵にするのか。そしてなぜそこに癒し効果があるのか。そんな疑問から研究を始めたのだろう。だから「芸術のはじまる場所」という意訳も、実は原著者の意図を汲んだ思いやりに満ちたものなのだ。











アウトサイダー・アート 芸術のはじまる場所
青土社
デイヴィド・マクラガン


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